ぶつぶつノート ~ごはんおかわり~

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カテゴリ:いつものぶつぶつ > ホンのちょっとした話

今ハマっているマンガ『聲の形』5巻が発売されました。

おもしろいんですよ、コレが。
表紙右側に立つ女の子は聴覚に障害があるので、最初の最初(読み切り掲載当時)はそういう手話とかの部分に関して興味があったのですが、いやはやストーリーがスゴいんです。
小学6年生の時に耳の聞こえない少女・西宮硝子が転校してきた。退屈な日常に飽きていた石田将也は硝子をからかい始め、やがてそれはクラスでのいじめへと発展していく……。その5年後の高校3年生になった将也は硝子と再会し、その2人を中心として物語が進んでいく。
……なんですが、これ、ハッピー・エンディングはあり得るんだろうか…。

私は、張りめぐらせられた伏線や謎が回収されていく、そういう物語が好きなので、これまでに出たコミックスを一日に何度も読んでたりします。
買ってきたばかりの新刊もさっと2巡読みました。

そうやってドはまりしておりましたら(連載でこの5巻の最後の方の展開が来た頃)、そういう謎や伏線について考えるブログも発見しまして、これがまた素晴らしいのです。

なぞ解き・聲の形 

伏線や大小のネタを仕込んでいる作者もすごいのですが、それらについて考察されているこちらのブログ主さんもすごいなぁと感服いたします。
しかも、毎日何件も記事が更新されている…! それも丁寧な記事が何本も…!!
このブログを見つけた時、最初の記事まで遡って一日中読みふけって、唸ってしまいました。 
私も何か考察してブログにコメントしたいのですが、まだできていません。ちょこちょこ考えることはあるのですが…。

『聲の形』は7巻で終了するそうです。もうこれは決定だそうで。
今から買ってもじゅうぶん間に合います(某海賊マンガなどは今さら最初からおススメするのが大変だ)し、ぜひ読んでみてください、と私がお願いするのもおかしな話のようですが、まぁ読んでみてもいいのではないのでしょうか。
あ、でも5巻のラストって壮絶な悶絶ものの絶叫レベルの引きなので、そういうのが耐えられない人は全てが終わってから読む方が、精神的によいかもしれません。

この物語は、いわゆるフツウのハッピー・エンディングである必要はないと思う(そんなのは好みではない)のですが、ぜひとも登場人物それぞれにそれなりの何らかの形でのハッピーが訪れることを祈ります。
それぞれの声がちゃんと誰かに届きますように…。 

祇園祭ですね、毎日暑オスなぁ。
前祭の巡行が終わったので、(私としては)少し一段落しました。祇園祭楽しいですねぇ。
さて、今年は宵々々山見物に行くまでは全く祇園祭の気配を感じることができなかったので、念願だった『宵山万華鏡』を読むことにしました。 
 
宵山万華鏡

宵山万華鏡
著者:森見登美彦
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で、この話、私は怖かったんです。ゾクッとしました。(でも、キライじゃない)
けど、友人にそのことを話したら「何言ってるのコイツ」的な顔をされました。モリミーっぽくて楽しくなかった? ちょっと不思議なところはあるけど…みたいな。ね。

そこで、はたと気づいたのです。私は、この話が現実にあり得るかもしれない、と思っているフシがあるんだと。
まず、京都という街と祇園祭の宵山が持つ不思議な気配とか雰囲気とかが、あり得なさそうなことが起こりそうなそんな下地をつくっている、というのはあると思います。

それよりも、私は、いわゆる「無限ループ」というのが、怖いんです。なぜ怖いのかというと、自分にも起こっているんじゃないかと思っているからなんですね。(またこいつアホなこと言い始めたで…)
このお話の中に、宵山の1日をえんえんと繰り返している人物が登場するのですが、まぁ、普通は「そんなことない」「ファンタジーの話」で済むんでしょうが、何しろ私、夢から醒めない夢を見続けたこともありますし、経験しているはずのない会話の記憶があったりしますし、そういうことがしょっちゅうなので、どこかでループしてるんじゃないかな、と思っているのですよ。ハイ。
「この人とこの会話するの、出会ったタイミングからすると初めてのはずなのに、初めてじゃない、って思うことがもうすで何度かある」というのがたびたびあるのです。いろんな場面で。
おかしいですねぇ。(私の頭が?)
未来の分の記憶を持っているか、私の人生のどこかのタイミングでループしていてその記憶がぼんやりある、ということですよね(断言)
そんな私なので、祇園祭の宵山から抜け出られないループ、というのはちょっと真実味のある怖さとして感じられるということです。

う~ん、『宵山万華鏡』怖いよね、という話を書きたかったのに、私がたぶんアブナイこと言うコワい人だと主張してるみたいですね。ま、いいや。 

「宵山姉妹」を“ちょっと不思議なファンタジー”と読んで、「宵山金魚」「宵山劇場」を“阿呆の楽しい話”と読んだのに、「宵山回廊」「宵山迷宮」と読んだら“無限ループ”でてきてこれは…となって、最後の「宵山万華鏡」まで読むと最初の方のちょっと不思議なちょっと可笑しい話が実は?…となってもう一度最初の「宵山姉妹」からもう一度読みたくなるという、この1冊でループしてしまうはめになりました。
恐るべし、『宵山万華鏡』……。

私がけっきょく16日の宵山に行かなかったのは、これを読んだからじゃないですよ。
だって、今年(2014年)から宵山も前祭と後祭に分かれたので、あの場所(室町三条下ル)で宵山の雰囲気は味わえないんです。
ちょっとホッとしつつ、後祭の宵山も行ってきます。

宵山様に出くわしませんように……。 

浄土真宗の開祖・親鸞の物語であるが、宗教者として偉人としての“親鸞”というより、ひとりの悩める青年としての“親鸞”が描かれている。
京都では2011年から2012年にかけて東西本願寺をはじめとして、「親鸞聖人750回大遠忌」とする法要・行事が催されている。私自身勘違いしていたのであるが、2011年が親鸞聖人750回忌なのかと思ったら、2012年が750回忌なのだそうだ。2012年1月16日が750回めのご命日。(宗派によって旧暦で行うところもあります)

「親鸞」と言っているが、“親鸞”が“親鸞”になるまでの物語といってよいかもしれない。
放埒者”の血を引く、不思議な少年“忠範”の物語。末法の世と言われ、汚濁にまみれた世の中。

いまの世に生きる者たちには、明日という日はございません。きょう、このとき、いましかないのです


そういって比叡山に入った修行僧“範宴”の苦悩の日々。
学問の難しさであり、悟り得られぬ苦しさであり、教団・教義への疑念であり、若き青年として当然わきおこるであろう様々な欲求への懊悩であったろうか。

〈そもそも仏とは何なのか〉


と自らに問い、

……常行三昧の行をつとめながら、心にうかぶのは、みだらな男女の愛欲の情景であり、酒に狂う父の姿、泣きふす母の姿、そして伯父の家に置き去りにしてきた弟たちの顔です。み仏に会うことはできず、おのれの実体も見えませぬ。法印さま、範宴はいま、横川の闇よりも暗い無明の谷底にいるのです。……


と語る範宴。
そして、法然上人のもとへ行き“綽空”と名を変えての念仏の日々。妻帯し、肉食するという、あり得ない僧である。法然の念仏教団をとりまく問題、教団内での問題。そのただ中にいた綽空。
さらに、師から教えを受け継ぐ者として、独り立ちした“善信”。そのもとにふりかかる念仏禁止の法難。妻・恵信の故郷である越後への流罪。
それとともに“親鸞”と名を変える――

とざっくり名前の変遷と共に追ってみたが、とうてい書ききれない。
もっと多くの魅力的な人たちが出てきている。美しいきれいな尊い物語ではなく、現実の汚濁に満ちた世界がかいま見えもする。ありきたりの言葉ではない。“親鸞”というひとりの“人間”が描かれることによって彼の思想や教えや苦悩が、もしかしたら少し“現在”のわたしに伝わってくるのかもしれない。

昨年の第一冊めとしてこの本を読めたことがうれしかったし、今年またもう一度手にとってみれたこともありがたい。

そろそろ、激動編を読んでみたいと思っている。

親鸞 (上) (五木寛之「親鸞」) 親鸞 (上) (五木寛之「親鸞」)
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戦後まだ間もない頃。京都の北部・丹後は与謝の貧しい家に生まれ、その後西陣五番町の遊郭「夕霧楼」へと上がることになった片桐夕子。そのはかなくも美しい…そして悲しい物語と言ったらよいのだろうか。

その美しきヒロイン・片桐夕子であるが、実は井筒八ツ橋本舗の生八ツ橋「夕子」のキャラクターのモデルなのである。
ちゃんと井筒八ツ橋本舗のサイトにも「井筒の生八ッ橋 夕子の由来」というページがある。
この「夕子」が美しいかどうかは各人の判断に委ねるとして、私としては読後の「夕子」イメージとパッケージの「夕子」イラストイメージは、残念ながら一致しない。

ヒロインとはいえ、夕子の心情というのはほとんど描かれていない。
夕子の体についてはこまかく描写されているが。
なんだか捉えられないまま、読み終わった。

何も知らない初心な田舎娘のような処女性と、男心をとろかすような妖艶な娼婦の二面性。

〈やっぱり、この娘は天性の娼婦やな……〉


と夕子を水揚げした竹末甚造に言わしめている。
この道楽を知った西陣帯の織元の旦那と、吃りのある鳳閣寺の僧・櫟田正順。
二人の男が夕子の客である。

夕子(の躯)に惚れて面倒を見ようとするタアさん(竹末)。
鳳閣寺……まぁ、金閣寺のことと言って間違いないだろう、そこの青年僧で実は幼なじみであった櫟田と夕子の恋。
そんな櫟田に嫉妬さえする、大の大人のタアさん。
肺を患ってしまう夕子。
鳳閣寺に火を放つ櫟田。(金閣寺放火事件のことだろう)
失踪する夕子。
そして――。

今までは思いもしなかったが、井筒八ツ橋本舗のCMソング「夕子、夕子、どこにいる〜♪」というのが、いつになく悲しく聞こえてくるようだ。


五番町夕霧楼 (新潮文庫)

息つく暇もないほどの、ハイペース。「ガラスの仮面」の刊行……と展開が。 前に書いてから2年半ほど経っています。 以前なら4、5年は平気で出なかった単行本がこの間に4冊出てるのです。2か月連続刊行なんてのもあったし。びっくり。ホントに「ガラスの仮面」なんだろうか。 そんなこんなで、44巻から47巻までを一気に読んでみました。 4巻分なので、気になったことについて短くちょっとずつ。 亜弓さんの目が悪くなって以降の特訓がすごすぎる。歌子ママ恐るべし。が、昔「花とゆめ」で読んだ記憶では突然周りの気配を感じて演技しだしてたような気がするので、この特訓がなくてやるよりはいいと思う。 ろうそくの中での特訓は、あんなヒラヒラのスカート着てやるべきではないと思う。 相変わらず桜小路くんは可哀想すぎる。 紫織さんが黒すぎる。 紫織さんは何かあるとすぐフラっと倒れすぎる。あれでは大都芸能の社長夫人はつとまらないのでは? 大都芸能の警備はすごいのかどうなんだか。爆発物を内々に処理できる能力を持ちながら、玄関前で社長が襲われているのにしばらく気づかないとは。 ワンナイトクルーズのところで思ったけど、もしかして冷血仕事虫の真澄さまは、女性経験ないのでは?ドキドキ……。 あーっもう、そしてこのマヤと真澄さまがとうとう想いをを通じ合わせてラブな展開は、読んでて顔が赤くなるようにちょい恥ずかしい。えっと、伊豆の別荘でふたりっきりで会おう、星を見よう、それってお泊まりよね、ってことは……きゃっ(/ω\) そして、これからブラック紫織はどんな悪辣な手を使ってくるのか、真澄さまはどのように行動するのか、気になります。 もちろん、紅天女の行方も気になります。 いまだ有利なのはマヤ、と月影先生もおっしゃっています。紅天女の本質に近い、ということかな。 一方で亜弓さんには目のハンデが。 一般的には、主人公側に乗り越えるべきハードルなりハンデが課せられて、そして勝利……というのがパターンかと思われるのですが。これでは、これだけ大変なメに遭っている亜弓さんの方が主人公のようです。 もう、亜弓さんの紅天女でもいいかな、と思いつつも、やっぱりマヤに演ってほしいような……そんな複雑な心境。(って前にもおんなじこと書いたかな) まだまだひっぱられるかと思っていた、マヤと真澄さまのラブ告白。これは逆に幸せな結果にならないんじゃないか、とか不吉なことを考えてしまう私。 みんなが幸せになりますように。 そして、ちゃんと完結まで読めますように……。

今年ほど五山の送り火が注目を浴びたのは、近年なかったと思う。京都に住む私にとって、いろいろ考えることはあるが、そこは触れずにおく。
でも、五山の送り火とはどんなものであるのか、京都の人々が、保存会の皆さんがどのように受け止め受け継ぎ火を灯し続けたか、そういうことを考えるのによい機会ではあると思った。

古い本である。図書館で偶然手にしたその本は、だいぶ傷んでいた。
しかし、中身は色あせていない。
何百年もの昔から送り火が受け継がれたように、この本も30年経った今でも「生きて」いる。

コンパクトな本ながら、送り火の歴史や、その当日に何が行われているか、がよくわかる。
もちろん、今では違うかもしれないのだが、そんなに変わらないのではないかとも思う。何となくだけれど、そう感じた。
「その日、午後」「点火まで」「燃える送り火」とされた各章では、昭和50年の送り火の様子が時間順に書かれていて、興味深い。写真も多く掲載されている。
下から見上げるあの火の裏では、そんなことが行われているのか――と。

第二次世界大戦からの復興途上、平和をかみしめつつ途絶えていた送り火が復活。そしてその30年後に本書の出版。またその30年後の今年は、何の因果か東北東日本大震災という大災害が起きた。
悲しいことも多くあるが、たくさんの京の人が、たくさんのお精霊さんを送り、復興への祈りを込めて、夜空に浮かぶ五山をそれぞれ眺めたのではないだろうか。
そんなことを思った、2011年夏の終わりのことであった。

大文字―五山の送り火 (駸々堂ユニコンカラー双書)
 

 私は、この物語を、最も理解できる人間のひとり、ではなかろうか。――などと、思わないでもないほどの背景設定。というのも、主人公は佐賀県出身で、京都の嵯峨野に出てくる話なのである。Saga to Sagaである。だから、“嵯峨野”物語であり、“佐賀”の物語であるともいえるかもしれない。
 戦争未亡人であった武上春恵は、ひとり息子を就職列車に乗せて送り出してすぐ、自分も新天地へと旅立つ決心をする。
――人の目がいつでもどこかで光り、噂話が朝から晩まで木々のさやぎのようにきこえる田舎町。(略)田舎暮しの窮屈さ、息苦しさが身に染みた
……と、故郷の佐賀を離れて憧れの京都へ。
――京都にあこがれる女に、京都の人々が冷たいわけはないと信じていた。

 実は、7年ほど前にいちど読んだことがあったのを、最近思い出してもういちど読んでみた。最初の時は、ストーリーに、主人公に感情移入し、相変わらず悔しい話に涙をこぼした。ただ、京都の描写のことはよくわからない部分もあった。この間の7年というのは、私自身結婚し、20代から30代になり、まぁ元からピチピチ感はそうはなかったがいっそうおばさんらしくなり、京都の東山とか左京といった東の方から西の嵯峨の方へと移り住み、京都のいろんなことを見て歩くことが好きになっていった時期である。

 京都の各所を見て歩く場面、また嵯峨野の風景が描かれている箇所などは、ああ、あそこ……とはっきり目に浮かぶようになった。釈迦堂のお松明の様子など、以前はふーん……ぐらいのものであった。今となっては、え、そこにそんなお寺ないよね、と寺の名前の誤植さえもわかるようになってしまった。かつては、佐賀の風景なんか描かれても誰も分からないだろうに、と思っていた。つまり、佐賀のことがわかって読む人が少ないだろうから私はその分有利(?)みたいに思った。けれど、実は嵯峨野の風景も行ったことないと、読む側にとっては全部いっしょくたに「なんとなく美しい描写」でしかないんだろうな、と思い至った。

 それと、言葉。何の解説もなしに、佐賀弁と京ことばが出てくる。
「どうどすやろ。あんたはん、この店を手伝うてくれしまへんやろか。嵯峨野におりたいのやったら、ちょうどええやおへんか……」
といった京のことばはまだしも、
「どがんかなるやろ。それに、いつまでもここに厄介になっとも心苦しかでしょうが。息子が一人まえになった以上、私も負けとかれんけんね。京都へいくけん」
という佐賀弁がするっと読める人は少ないのではないだろうか。この作者さん、ホントに佐賀から出てきて京都に住んでいたんじゃなかろうか、なんて思ってしまう。そうそう、最初は佐賀弁だったのが、だんだん土地の言葉に慣れていくのよね……。

 それから、前に読んだ時はこの話が実際に起こった事柄を題材にしているとは全く知らなかった。数年前に工藤芝蘭子なる人物が実在していたと知り、つい最近、かつてそういう事件があったのだと知った。
 この話、中盤からの主な舞台は嵯峨野・落柿舎である。春恵さんは落柿舎の留守番・手伝いの職に就き、庵主である俳人・工藤芝蘭子(工藤九郎)との生活が描かれる。そもそも、かつては“芝蘭子”なんて読めもしなかった。“しらんし”と読むと知った時は「そんなん知らんし」と思ったモノであったが、まさか“芝蘭子”さん自身が「知イらんし」という意味で名乗っておられたとは。
 その芝蘭子宗匠は、かつては堂島の相場師、夜の街もブイブイ言わせておられた(イメージ)方だったのが、後半生は嵯峨野の落柿舎保存活動などに携われた。戦後の人々の生活も落ち着きだし、新幹線も開通し、そういう頃に多くの人が京都・嵯峨野を訪れた。落柿舎では入場料を取らず、元禄のまま去来のいた頃のままの雰囲気を守ろうとしていた。が、いろいろあって突然庵主の芝蘭子さんが追い出される事件が起こる。クライマックスに近い場面であるので、ぜひ本書を読んでいただきたい。また『集成 落柿舎十一世庵主 工藤芝蘭子』という本も併せて読むといっそうわかりやすい。ちなみに、この『集成――』を読むと、「武富さん」なるお手伝いの女性がいたと書かれている。「武富さんは、薙刀でも使ひさうな、女のますらをであった……」とあり、ああこの人だったんだろうなぁと思える。
農家の娘ながら、葉隠の佐賀の女である。恥辱は死をもってつぐなえと少女のころ教えられた。媚を売って生きるくらいなら飢えて死ぬ。その程度の心意気はもっている。
「……サガはサガでも私は佐賀の女ですからね。ただですむと思ったら大まちがい。ひどい怪我をしますよ
である。現代のすこやか佐賀っこは、葉隠を仕込まれてはいないけれど、それでもその気概は多少なりとも受け継がれていると思わなくもない。自分をふり返ってそう思うのだ。

 

 夫との結婚生活、佐賀での江頭との恋愛と失敗、京都での工藤との生活、坂口との応酬――。どれをとっても苦労するのは女ばかり、という話である。
男と女の関係で、苦しむのはだいたい女のほうだ。
という春恵の諦観は当然だ。とはいえ、男と女のこと、人間同士のこと、どちらが悪いとかいう話ばかりではない。愛憎いろいろ入り乱れる思い――武上春恵の気持ちで読んだ。

嵯峨野はけっしてとくべつな土地ではないと春恵は思った。美しい山河があり、意味深い史蹟がある。が、それ以上にさまざまな人物がいた。男と女がいた。いろんな人が、それぞれのいいぶんをかかえて生きていた。おなじ人が仏になったり鬼になったりした。聖者でもあり、獣でもあった。春恵自身もそうだった。なかへ入って暮してみると、嵯峨野はよその土地とまったくおなじだった。日本の国の一部だった。

 落柿舎には、ずいぶん昔に行ったきりである。もちろんこの物語を読むずっと以前である。この『嵯峨野物語』を二度読んだ今、もういちど訪れてみたい。皆さんもいっぺんどうぞ。もちろん、読まずにただ「感じ」に訪れてみるのもアリだろう。

知識でなく感覚で嵯峨野を好きになる

――そういうものであるらしいから。

(阿部牧郎「嵯峨野物語」1983年8月、文芸春秋)

嵯峨野物語   集成落柿舎十一世庵主工藤芝蘭子

(2011/6/1)

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