今年も「忠臣蔵」の季節がやって来ました。……と言うほどには、実は「忠臣蔵」に興味がない。というか、これまでは全くと言っていいほど「忠臣蔵もの」を見たり読んだりしたことがなかった。12月といえば忠臣蔵(12/14)よりジョン・レノンの命日(12/8)である。
でも、見たことがなくても常識の範囲で知っていることもある。「吉良コウズケノスケ」が「浅野タクミノカミ」をいじめて、タクミノカミはコウズケノスケに「松の廊下」で斬りかかった。そのことによりタクミノカミは切腹。お家も断絶。タクミくんの家来の大石クラノスケ以下47人が主君の仇を討った。天晴れ、天晴れ。……そんな話だと認識していた。
そんな私が初めて読んだ「忠臣蔵」がこの「上野介の忠臣蔵」である。タイトルからも分かる通り、吉良上野介側から見た「忠臣蔵」である。仕掛けはそうなのだが、話は涙さえさそうものだった(少なくとも私にとっては)。上野介側から見た、とは言ってもこれまで語られてきた事実と変わるわけではない。私でも知ってる“畳の話”とか、“松の廊下”のシーンも、ちゃんとある。ただ、視点(というか語り口)が違うと、全く違う話のように見えてしまうのだ。そしてそれは決して、“赤穂義士天晴れの話”ではなかった。
何も知らないということは恐ろしいもので、私にはどこまでが史実でどこからが創作かがわからないのである。実はこの小説のもう一人の主人公ともいうべき清水一学、私は彼のことを作者・清水義範が勝手に創りあげたのかと思ってしまった(大バカ者である)。だって“清水”だし。
で、この一学の存在が、何ともせつなくさせるのである。純真で、実直で、少し不器用で……。そんな一学と、お咲の恋物語が語られることで、時代劇にない爽やかさが加わってるような気がする。そしてラストで涙があふれそうになる。
歴史小説の類を読むといつも困るのが、結末が分かっている、ということである。どんなに上野介側に感情移入して、切なさに胸を痛めても、必ず最後に吉良は討たれるのである。どうあっても避けられないのである。
感情移入しやすい私は、素直に、浅野にむかついた。何だよ、こいつ。そして、仇討ちを実行したあの赤穂の浪士集団にも憤りを覚えた。さらには、奴らを「赤穂義士」などと呼ぶ世間にも何やらむかつくようになってしまった。だって、主君はブチ切れて重要な式典の途中で上野介に襲いかかったんだよ。その罪を問われて切腹させられたのを逆恨みに思って、無防備な老人の寝込みを武装集団が襲って殺害したんだよ。どうして、あっちがいいヤツになるのよ。どうしてこっちは悪者になってるの。何だか、やりきれない思いで胸がいっぱいになってしまう。
そんな「忠臣蔵」。
私が初めて読んだ「忠臣蔵」は、とても切ない「忠臣蔵」でした。
(清水義範「上野介の忠臣蔵」2002年10月、文藝春秋、文春文庫)