ぶつぶつノート ~ごはんおかわり~

たとえアイコンがうさぎになろうとも、ヒト型ネコはゆずらないっ!
ごはんおかわり! お茶も!
あ、ぶぶ漬けでもどうですか?

カテゴリ:旧「きよこ館」記事 > 「きよこ館」読書感想文室

 私は、この物語を、最も理解できる人間のひとり、ではなかろうか。――などと、思わないでもないほどの背景設定。というのも、主人公は佐賀県出身で、京都の嵯峨野に出てくる話なのである。Saga to Sagaである。だから、“嵯峨野”物語であり、“佐賀”の物語であるともいえるかもしれない。
 戦争未亡人であった武上春恵は、ひとり息子を就職列車に乗せて送り出してすぐ、自分も新天地へと旅立つ決心をする。
――人の目がいつでもどこかで光り、噂話が朝から晩まで木々のさやぎのようにきこえる田舎町。(略)田舎暮しの窮屈さ、息苦しさが身に染みた
……と、故郷の佐賀を離れて憧れの京都へ。
――京都にあこがれる女に、京都の人々が冷たいわけはないと信じていた。

 実は、7年ほど前にいちど読んだことがあったのを、最近思い出してもういちど読んでみた。最初の時は、ストーリーに、主人公に感情移入し、相変わらず悔しい話に涙をこぼした。ただ、京都の描写のことはよくわからない部分もあった。この間の7年というのは、私自身結婚し、20代から30代になり、まぁ元からピチピチ感はそうはなかったがいっそうおばさんらしくなり、京都の東山とか左京といった東の方から西の嵯峨の方へと移り住み、京都のいろんなことを見て歩くことが好きになっていった時期である。

 京都の各所を見て歩く場面、また嵯峨野の風景が描かれている箇所などは、ああ、あそこ……とはっきり目に浮かぶようになった。釈迦堂のお松明の様子など、以前はふーん……ぐらいのものであった。今となっては、え、そこにそんなお寺ないよね、と寺の名前の誤植さえもわかるようになってしまった。かつては、佐賀の風景なんか描かれても誰も分からないだろうに、と思っていた。つまり、佐賀のことがわかって読む人が少ないだろうから私はその分有利(?)みたいに思った。けれど、実は嵯峨野の風景も行ったことないと、読む側にとっては全部いっしょくたに「なんとなく美しい描写」でしかないんだろうな、と思い至った。

 それと、言葉。何の解説もなしに、佐賀弁と京ことばが出てくる。
「どうどすやろ。あんたはん、この店を手伝うてくれしまへんやろか。嵯峨野におりたいのやったら、ちょうどええやおへんか……」
といった京のことばはまだしも、
「どがんかなるやろ。それに、いつまでもここに厄介になっとも心苦しかでしょうが。息子が一人まえになった以上、私も負けとかれんけんね。京都へいくけん」
という佐賀弁がするっと読める人は少ないのではないだろうか。この作者さん、ホントに佐賀から出てきて京都に住んでいたんじゃなかろうか、なんて思ってしまう。そうそう、最初は佐賀弁だったのが、だんだん土地の言葉に慣れていくのよね……。

 それから、前に読んだ時はこの話が実際に起こった事柄を題材にしているとは全く知らなかった。数年前に工藤芝蘭子なる人物が実在していたと知り、つい最近、かつてそういう事件があったのだと知った。
 この話、中盤からの主な舞台は嵯峨野・落柿舎である。春恵さんは落柿舎の留守番・手伝いの職に就き、庵主である俳人・工藤芝蘭子(工藤九郎)との生活が描かれる。そもそも、かつては“芝蘭子”なんて読めもしなかった。“しらんし”と読むと知った時は「そんなん知らんし」と思ったモノであったが、まさか“芝蘭子”さん自身が「知イらんし」という意味で名乗っておられたとは。
 その芝蘭子宗匠は、かつては堂島の相場師、夜の街もブイブイ言わせておられた(イメージ)方だったのが、後半生は嵯峨野の落柿舎保存活動などに携われた。戦後の人々の生活も落ち着きだし、新幹線も開通し、そういう頃に多くの人が京都・嵯峨野を訪れた。落柿舎では入場料を取らず、元禄のまま去来のいた頃のままの雰囲気を守ろうとしていた。が、いろいろあって突然庵主の芝蘭子さんが追い出される事件が起こる。クライマックスに近い場面であるので、ぜひ本書を読んでいただきたい。また『集成 落柿舎十一世庵主 工藤芝蘭子』という本も併せて読むといっそうわかりやすい。ちなみに、この『集成――』を読むと、「武富さん」なるお手伝いの女性がいたと書かれている。「武富さんは、薙刀でも使ひさうな、女のますらをであった……」とあり、ああこの人だったんだろうなぁと思える。
農家の娘ながら、葉隠の佐賀の女である。恥辱は死をもってつぐなえと少女のころ教えられた。媚を売って生きるくらいなら飢えて死ぬ。その程度の心意気はもっている。
「……サガはサガでも私は佐賀の女ですからね。ただですむと思ったら大まちがい。ひどい怪我をしますよ
である。現代のすこやか佐賀っこは、葉隠を仕込まれてはいないけれど、それでもその気概は多少なりとも受け継がれていると思わなくもない。自分をふり返ってそう思うのだ。

 

 夫との結婚生活、佐賀での江頭との恋愛と失敗、京都での工藤との生活、坂口との応酬――。どれをとっても苦労するのは女ばかり、という話である。
男と女の関係で、苦しむのはだいたい女のほうだ。
という春恵の諦観は当然だ。とはいえ、男と女のこと、人間同士のこと、どちらが悪いとかいう話ばかりではない。愛憎いろいろ入り乱れる思い――武上春恵の気持ちで読んだ。

嵯峨野はけっしてとくべつな土地ではないと春恵は思った。美しい山河があり、意味深い史蹟がある。が、それ以上にさまざまな人物がいた。男と女がいた。いろんな人が、それぞれのいいぶんをかかえて生きていた。おなじ人が仏になったり鬼になったりした。聖者でもあり、獣でもあった。春恵自身もそうだった。なかへ入って暮してみると、嵯峨野はよその土地とまったくおなじだった。日本の国の一部だった。

 落柿舎には、ずいぶん昔に行ったきりである。もちろんこの物語を読むずっと以前である。この『嵯峨野物語』を二度読んだ今、もういちど訪れてみたい。皆さんもいっぺんどうぞ。もちろん、読まずにただ「感じ」に訪れてみるのもアリだろう。

知識でなく感覚で嵯峨野を好きになる

――そういうものであるらしいから。

(阿部牧郎「嵯峨野物語」1983年8月、文芸春秋)

嵯峨野物語   集成落柿舎十一世庵主工藤芝蘭子

(2011/6/1)

 まるで、木曜8時(テレビ朝日系列放送)の、ミステリードラマみたい――。そんな印象でした。それがこの、“裏(マイナー)京都ミステリー”と銘打たれた短編連作ミステリー『支那そば館の謎』『ぶぶ漬け伝説の謎』の2冊。

 過去に暗い傷のある主人公。何にでもすぐ首をつっこみたがり、事件を持ってくる(時にややこしくする)ヒロイン。豊富な人生経験からか、本質を見抜くすぐれた直観力からか、複雑に絡まる謎を解きほぐす一言を放つご老公的人物。何回めかの話で事件当事者として登場し、その後レギュラー化するお調子者。登場人物たちが行きつけにしているおいしいお店(これ重要)。周囲に謎(ミステリー)が多く起こっても一応おかしくない設定(たとえば警察関係、探偵、新聞etc)。そして、舞台・題材は知る人ぞ知る“裏(マイナー)京都”。ほら。タイトルに“京都”と入っているだけのいくつかのドラマより、ずっと面白いドラマになりそうじゃないですか。

 そのわかりやすいキャラ設定の登場人物たち。
 主人公のアルマジロこと有馬次郎は、京都が誇る貧乏寺「大悲閣」で静かに暮らす寺男。しかし、元は“怪盗”として裏の世界で大活躍していた広域窃盗犯。彼が事件に巻き込まれ、彼が時に特殊能力を用いて謎を解きます。
――僕は顔には出さずに、密かに精神のモードを《俺》に切り替えた。
 彼に事件を持ち込む(事件に巻き込む)のは、ヒロイン折原けい。自称みやこ新聞文化部エース。思い込みが激しく、突っ走りやすい、そのへんはベタなキャラ設定。
――「まっかせなさい。みやこ新聞エース記者の称号は伊達じゃない」
 大悲閣のご住職。そういえば、名前は出てこない。非常に卓越した洞察力、直観力、その他諸々によって事件を解決に導くヒントを出したりします。深いお人柄。
――「有馬次郎君、君は山を下りなさい」
 バカミス作家の水森堅・通称ムンちゃんは、すちゃらか、脳天気、そしてトラブルメーカー。ひょんなことから事件に巻き込まれ、その後、大悲閣にご厄介に(本当に厄介)なることに。
――「中身がないって、それは僕の小説のこというてるん、それとも人間性かあ」
 京都府警の碇屋警部は“税金泥棒”と呼ばれております。時々鋭そうな気もしますが。
……主な登場人物はこんな感じですね。あと、寿司割烹十兵衛の大将やKON'S BARのマスター・カズさんといった人たちも。

 さて、主な舞台は嵐山にあります、大悲閣千光寺。どういうところかといいますと、

嵐山の渡月橋からさらに大堰川~保津川沿いの山道を歩くこと二十分。人里離れたという言葉がかくも正確に聞こえる場所を他に知らない辺境の地に、大悲閣千光寺はある。高瀬川開削で知られる角倉了以を中興の祖とし、かの芭蕉翁もこの地を訪れて一句詠んだ――その句碑が今でもある――とされるれっきとした名刹だが、今はその面影は何処にもない。生粋の京都人でさえも、その存在を知る人は少ないと陰口を叩かれる、いや、陰口さえ叩かれない由緒正しき貧乏寺……(「異教徒の晩餐」より)

確かに、知られていない。生粋の京都人とおぼしき同僚数名に聞いてみましたが、知らないようでした。 でも、実際に行ってみたらいいところでしたよ。

 『支那そば館の謎』には、「不動明王の憂鬱」「異教徒の晩餐」「鮎躍る夜に」「不如意の人」「支那そば館の謎」「居酒屋 十兵衛」が収録。そして、『ぶぶ漬け伝説の謎』に、「狐狸夢(こりむ)」「ぶぶ漬け伝説の謎」「悪縁断ち」「冬の刺客」「興ざめた馬を見よ」「白味噌伝説の謎」が収められています。

 語り口はで軽く、しかしミステリーは上々。そんな感じでしょうか。それぞれのミステリーの核はあくまで京都のガイドブックには載らないような奥深いところの話。
 たとえば、京都の、肋間神経痛を引き起こすほどの底冷えの冬。そして銭湯
 はたまた、鯖寿司…鯖の棒寿司という、京都独特の食べ物。
 ある時は、五山の送り火。送り火そのものは超がつくほどの“表”京都ですが。あの混雑。そして京都人ならだれでも持っているといわれる、送り火のベストビューポイント。そのあたり。
 またある時は、弘法さんと天神さんという2つの。そして太秦の撮影所。その界隈の特異性。慣れるとただの景色ですが。
 京町家という住宅の事情。からくり。
 けちくさいというべきか合理的というべきか、マッチに刷られた広告にさえ垣間見られる、京都人。

 狐と狸の化かし合い。きつねうどん、たぬきそば、たぬきうどん。京都「たぬき」を注文する時はご注意を。長年住んでいると、たぬきに慣れてきている自分がいる。冬にたぬきうどん、うまいですよ。
 「ぶぶ漬けでもどうどすえ?」というかの有名な京都人いけず伝説。確かに、言われたことはない。そんな生粋の京都人の家に行ったことがないからかもしれないが。
 縁切りで名高い安井金比羅の奇妙な形代。「浪費癖と縁が切れますように」「吝嗇癖と縁が切れますように」京都人には吝嗇と浪費が同居する。
 みたらし団子の発祥は京都・下賀茂神社。ご存知でしたか? 団子は5つ。それぞれ頭と両手両足をあらわしている。とすれば、上の1つがないものは、……殺人予告?!
 絵から飛び出た馬の交通事故。
 京都の甘い白味噌にまつわる甘くない事件。なお、すでに甘い白味噌にさらに砂糖を入れてお雑煮を作る、という京都人の知り合いもいます。

 私は、「ぶぶ漬け伝説の謎」が好きですね。「ぶぶ漬け伝説における民俗学的考証」……いいフレーズだ。あながち、あの推察は正鵠を得ているのではなかろうか、なんて。あと実は「鮎躍る夜に」が好きです。とても悲しい事件なんですけど。それから、「白味噌伝説の謎」。最後にぞくっとするような……。あの感じが。
 少々重いテーマであっても、語り口のせいか、軽く感じられます。それがいいところ、だと思います、私は。

 この本を読んで、感じたこと。ひとつは出てくる食べ物がおいしそう。十兵衛の大将のつくる創作料理、カズさんのカクテル、大悲閣での日々の食事。どれもがおいしそう。そうとなれば、これは“食べたくなる”本だといえるかもしれない。北森氏の作品は出てくる食べ物がおいしそう。
 また、“読みたくなる”本でもあると思う。作中のいろんなところにほかの作品がちりばめられており、それらを読みたくなるんです。林屋辰三郎『京都』。五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』。高野悦子『二十歳の原点』。そうそう、バリンジャーの『歯と爪』なども。そして、他作品へのリンクは数あれど、いちばん読みたくなるのは何と言ってもこれでしょう。実世界には存在しないのが残念だけれど、ムンちゃんこと水森堅センセの「花の下伸ばして春ムンムン」第6回「大日本バカミス作家協会賞」受賞作品! いったい、どんだけバカバカしいミステリなんでしょう。北森氏の『花の下にて春死なむ』と合わせて読みたいです。
 そして、最後に“住みたくなる”本ではないでしょうか。観光旅行ではなかなか訪れない京都が多く描かれておりますし、何より住んでわかることがたくさん。15年以上京都に住んでいて知らなかったことが、この本を読んで初めて知った、なんてこともありました。言葉は知らなかったけれど、実感としては知っていた、というのもありました。“油照り”“夜秋”なんていう言葉がそうでした。“巡りたくなる京都”小説が川端康成の『古都』だとすれば、こちらは“住んでみたくなる京都”小説――。そういっては過言でしょうか。ま、「京都に住みたい」なんて言ったら京都人の前で言おうものなら、「夏はあっついし、冬はさっぶいさっぶいし、春と秋は観光客でだだ混みやし……」といった感じで、あれやこれやと京都のヤなところをさんざん挙げられるでしょうけれどね。でも少なくとも私は、この小説を読んで、京都に住んでてよかった……と思いましたよ。

「鮎躍る夜に」のラスト、折原と有馬の会話。

「もしかしたらさあ、この京都には密かに悪党を退治する秘密組織があったりして」
「なんやそれは。テレビの見過ぎやで」
「ンでもって、組織の元締めがここのご住職だったりするの」
「じゃあなにかい。僕はご住職の命を受けて闇に暗躍する、エージェントちゅうわけかい」

――そんな裏の京都がホントにあるかも……。

(北森鴻「支那そば館の謎」2006年7月、「ぶぶ漬け伝説の謎」2009年8月、光文社、光文社文庫)

 

(2010/5/11)

 

はじめに

 ヒトの中には、ネコが好きな者が多くいます。ただ、そんなネコ好きなヒトの中に、実はネコであるヒト、かつてネコであったヒト、あるいはかなりネコ寄りのヒト、などが多く存在することは案外知られていません。今回ご紹介するのは、そういった広義の“ネコ”諸氏にお奨めしたい本の“ごく一部”です。そう、ごくごく一部。この世の中には信じられないほどの“ネコ本”が存在し、とある図書館の検索システムでタイトルに“猫”と入力してみたら2000件を超えてしまうほど所蔵されていとの噂です。ですからこれは、ホントは目録じゃないです。一介のネコ司書がたわむれに選んだ本の紹介だとご理解ください。
 ネコのみなさん、ネコのヒトのみなさん、そしてネコ好きのヒトのみなさんにも、ぜひ読んでいただきたい。

 まずは、
『ネコのために遺言を書くとすれば』(木村晋介)
『猫のための音楽』(相沢啓三)
などいかがでしょう。ネコのための本であることは間違いないです。ですが、実は私読んでいません。短期間にネコ本をいろいろ探していたら読むヒマがありませんでした。タイトルだけですみません。読んだらどんな本だったか教えてください。

『新猫種大図鑑』『イラストでみる猫学』『愛猫のための家庭の医学』『最新くわしい猫の病気大図典』
 これらの本は主にヒトがネコを知るために読む本です。“猫種”は“ビョウシュ”、“愛猫”は“アイビョウ”と読みます。ヒトにも『人種大図鑑』があればヒトと接するネコにとって有用であると思いますが。
 これらの本の中で、特に、医学関係の本は身近なヒトに読んでおいてほしいものですね。ヒトに飼われているネコは病気にかかると病院に連れていかれますが、ネコはかつて病気になってもほっといて治していました。それでよかったのです。しかし、最近のネコは大変な病気にかかることがわかっています。

『猫のエイズ FIV感染を巡って(石田卓夫)
 これを読んだのは何年前だったでしょう。怖かったのを覚えています。ネコ界にはネコのエイズを治せる医者がいませんので、ヒトの医者に診てもらうしかありません。それでも治る病ではありませんので、罹らないようにするしかない(性交渉で感染はしないそうです)。ネコと、ネコに接するヒトに読んでおいてほしいです。

『世界のネコの世界 にゃおよろずのくにぐに(千石正一)

 これは“Necological Essay”だそうです。世界のいろんな地域・社会の文化・風習などを“Necology(猫学)”の視点から書かれています。自身のことを“半猫人(はんびょうにん)”であるという著者は、冒頭で「ネコの立場には立ちきれていない」ことを「ネコたちには申し訳なく思う」とし、けれど「読者諸兄の大半はネコではないと思われる」と述べておられます。
 ネコ側から読んでもおもしろい、ためになる一冊でした。世界にはいろんな文化があるものです。ドイツって20数年ぐらい前までネコ食が認められてたらしいよ。

 さて、そうやって世界のネコの世界を知って旅へ出たくなったなら、雑誌『じゃらん』を参考にされるのをオススメします。旅ネコ・にゃらん氏が大いに関わっていることでも知られます。夏頃のにゃらん氏は大いに青春を謳歌していた感じの旅をされていましたが、最近一念発起して営業の仕事をされているようです。彼の生き方は我々ネコに参考になることでしょう。
URL:http://www.jalan.net/jalan/doc/nyalan/summer2007/index.html

『猫語練習帳』(伴田良輔)
 ネコがヒトと会話するためには、“ネコがヒト語を覚える方法”と、“ヒトがネコ語を習得する方法”とがあることは容易にご理解いただけると思います。本書は後者、ヒトがネコ語を覚えるために読むべき本です。簡単な会話を中心に書かれており、またネコの習性・習慣等も同時にかいま見られるようになっている、すぐれた本です。ぜひ、ネコのみなさんはこの本を購入し、飼い主等のご自身が会話したい相手に贈るとよいでしょう。
 NDC(Nippon Dicimal Clasification=日本十進分類法)では645.7(猫)に分類されますが、NyDC(Nyanco Decimal Clasification=にゃんこ十進分類法)ではもちろん800番台(言語)に分類されます。
 また、ネコ語関連本には『猫語の教科書』(ポール・ギャリコ)という本があります。こちらは、ネコが読むための本であって、ヒトに読ませてはいけない本のようです。前から気になってはいますが、まだ読んでいません。内容紹介によると“猫による猫のための「快適な生活を確保するために人間をどうしつけるか」というマニュアル”だそうです。これは、読まなきゃ。

『113びきのねこのてがみ』(文:ビル・アドラー、絵:ポール・ベイコン、訳:掛川恭子)
 ネコ専用のサンタクロースがいるらしく、そのサンタに宛てたネコたちの手紙です。私はクリスチャンじゃないからか、その存在を知りませんでした。ネコたちのサンタさんへのお手紙は、くすっと笑ってしまうものばかり。それでいて時々ちくり。
 スクリーンセーバーの魚をひっかいてしまったネコは、新しいパソコンがほしいそう。金魚鉢の金魚がいつの間にか減っていて寂しそうなので、金魚のために新しい金魚の友だちを、とか。「あたしの家にきたとき、あたしを起こしてください。/近所に住んでいるねこが、サンタクロースなんて、ほんとうはいないんだなんていうんです。よろしくおねがいします」なんて。ヒトの子もネコの子も同じなのかもしれませんね。

『ヒナ祭りに誘拐された子ネコちゃん Shizimi(広野まさる)
 シジミちゃんは広野家のポポさん・ピピさん夫妻のお子さんです。
 3月3日、ヒナ祭りの日に突然誘拐されたシジミちゃん。恐ろしい誘拐犯はなかなか解放しれくれない。どうやら番犬もいるようだ。ああ助けて、おとうさん、おかあさん、ご主人……。誘拐犯は、毎日シジミの大好きなお魚をたっぷりくれたりして、いったいどういう魂胆なのでしょう。ドキドキハラハラの展開です。
 なお、あとがきは広野ピピさん、すなわちシジミのおかあさんが書いています。絵本なので子どものヒトにも読みやすいでしょう。

 そしてどうしてだか、「シジミ」という名前のネコが2匹も本を出しているのです。そんなによくある名前なのでしょうか。私の周りに「シジミ」さんはいらっしゃらないのですが。
『ねこのシジミ』(和田誠)
 こちらのシジミさんも、ご自身で書かれているようです。みそっかすでもらい手のなかったシジミさんでしたが、ちゃんと飼い主さんにも恵まれました。ちょっとした事件もありますが、シジミさんがんばります。そして平和な日々が……。

 さて、子ども向けの本が続いたので大人向きの本に移りましょう。
 割に“文豪”と呼ばれるヒトの中に、ネコがいるそうです。私調べでは、宮沢賢治(『どんぐりと山猫』『猫の事務所』等)や萩原朔太郎(『猫町』『青猫』等)がそれに近いのではないかと思っています。そして、何と言っても夏目漱石。
『吾輩は猫である』(夏目漱石)
 「吾輩は猫である。名前はまだない」というくだりで始まるこの作品は、言わずと知れた大名作。
 ともすれば出だしの部分しか知らないというヒトも多いと聞くが、実はこの冒頭の文章は少しおかしいでしょう。「名前はまだない」とあるが、名前はどう考えても「夏目漱石」です。それしかないじゃないですか。表紙にもはっきりと書いてあります。ネコ文豪の夏目漱石が、ちょっと洒落を利かせて「名前はまだない」としただけです。それなのにヒトは、自分の都合のいいように解釈するので困ったモノです。「ネコの目を通して見た人間社会への風刺や皮肉のきいた作品」などともっともらしいことを言うのです。確かに、夏目漱石はネコ以外の作品が数多くあるので誤解を生んだとしても仕方のないことではありますが、彼がヒトのフリをして書いた作品群が他の多くの作品なのです。
 改めて言っておきましょう。夏目漱石はネコである

 そして、コレはいつか読みたいと思っていながらまだ読んでいない作品です。リリアン・J・ブラウンが描く、シャム猫・ココが活躍するミステリ作品シリーズ。タイトルを並べるだけでも壮観です。ということで、並べます。
『猫は手がかりを読む』(1966)『猫はソファをかじる』(1967)『猫はスイッチを入れる』(1968)『猫は殺しをかぎつける』(1986)『猫はブラームスを演奏する』(1987)『猫は郵便配達をする』(1987)『猫はシェイクスピアを知っている』(1988)『猫は糊をなめる』(1988)『猫は床下にもぐる』(1989)『猫は幽霊と話す』(1990)『猫はペントハウスに住む』(1990)『猫は鳥を見つめる』(1991)『猫は山をも動かす』(1992)『猫は留守番をする』(1992)『猫はクロゼットに隠れる』(1993)『猫は島へ渡る』(1994)『猫は汽笛を鳴らす』(1995)『猫はチーズをねだる』(1996)『猫は泥棒を追いかける』(1997)、『猫は鳥と歌う』(1998)、『猫は流れ星を見る』(1999)『猫はコインを貯める』(2000)『猫は火事場にかけつける』(2001)『猫は川辺で首をかしげる』(2002)『猫は銀幕にデビューする』(2003)『猫は七面鳥とおしゃべりする』(2004)『猫はバナナの皮をむく』(2004)『猫は爆弾を落とす』(2006)『猫はひげを自慢する』(2007)『The Cat Who Smelled Smoke』(2009、おそらく邦訳未)参考:http://www.aga-search.com/607koko.html
どうです。すごいでしょう(まぁ、すごいのはブラウン女史なんですが)。……書き並べたら、読みたくなりました。現時点で30作品、読めるだろうか。いや、読むぞ。

『きょうも猫日和 猫のいる歳時記』(文:加藤由子、絵:大高郁子)
 さて、2月22日はにゃんにゃんにゃんで「猫の日」です。一見、ネコはカレンダーと関係ない生活をしているようですが、ヒトと密接に関わって生きるネコたちには、毎日にいろんな記念日があり、いろんなエピソードがあります。何もない日もネコ雑学。昔あったとされる「猫が年をとる日」、11月11日「日本初のウィスキー工場が完成した日」にちなんだネコ話、十二支にネコ年のある国の話、6月10日「時の記念日」の時計代わりのネコの目の話……、紹介したい話はいろいろありすぎて困ります。その中で1日だけ。8月15日終戦記念日。「……なぜ人間は戦争をするのか。「知恵のあること」がヒトという動物の特徴だと思うが、なぜ戦争という手段でしか問題を解決できないのだろう。人類の知恵とはその程度のものなのか。……」ヒトが争っていると関係ないネコ(やその他の動物)まで巻き込んでしまいます。ヒトのヒト、特に偉いヒトのヒトはもっと考えて欲しいものです。

 冒頭でお伝えしたように、これらの本はホンの一部でしかありません。私自身、紹介した本を全部読み切れていません。自分がこれから読んでみたいという本も入っています。興味のある方は、これらの本を読んでいただくのはもちろん、拾いきれていないたくさんの“ネコ本”を教えていただけたら、嬉しいです。

(H22/2/22)※今回だけ和暦表示

 この物語を、私は、カバーに描かれたイラストや口絵の写真に見られる、赤茶色したふさふさの毛並みの“図書館ねこデューイ”の姿ではなく、私の実家に置いてきた焦げ茶色とうす茶色の混じり合った私の“”(名前を「なる」という)の姿を思い出しながら読んでいた。著者のヴィッキー・マイロンが凍えるような寒い寒い冬の朝に、返却ポストの中にいた子ねこ、すなわち彼女の息子であるデューイ・リードモア・ブックス(なんとすてきな名前だろう!)と運命的な出合いをしたように、私にも私の娘との運命的な出合いがあった。

 ……忘れもしない、今から16年前(何ともう16年も前!)の6月8日、私たちは出合った。6月のその日は雨が降っていた。学校帰りのバスから降り、傘を差して家へと歩き始めてすぐだった。その小さな声を聞いた。
「みぃ~、みぃ~」
立ち止まってみると、植え込みから、ずぶぬれになった小さな小さなやせっぽちの子ねこが、よちよちよたよたと歩き出してきた。ほんとうにほんとうに小さかった。私は、かがみこんでじっと見つめてそして手を伸ばし、「にゃあ」と鳴いてみた(この一連の行動は私の習性みたいなものである)。食べさせるものも何も持っていない。立ち上がって再び家路へと歩き出した。
――とその時、その子ねこは私と共に歩き出したのだ。私の両の足に頬をすりつけるようにしながら、大きな人間であるところの私と共に、雨の中を歩き始めた。そして、ねこには「なる」という名前と、私の「娘」という続柄が与えられ、私たちは家族となった……。

 本書の内容は、ただ、かわいい子ねこが図書館で拾われて、みんなの人気者になった――というような簡単なお話ではない。と思う。
 まずこの物語は、デューイのママであるところのヴィッキー・マイロンの人生の物語でもある。
 ヴィッキーは、アイオワ州スペンサーの公共図書館の館長だった。ただし、彼女は最初から図書館で働くべく勉強してきた人ではなかった。幸せな結婚をしたはずのヴィッキにーは、出産と産後の過酷な人生が待っていた。手術、手術、手術……、2人め以降の子どもを授かるチャンスを無惨に奪われ、“六十歳になりかけた二十四歳”(重度の更年期障害)となった。夫は酒におぼれ、やがて離婚。それからのヴィッキーの懸命な努力により――もちろん周りの助けもあったが――、彼女は大学を“最優等”で卒業し、その後図書館で働くこととなった。その後の人生も、順風満帆とは言い難い――特に女手ひとつで一人娘を育てていくことは並大抵のことではなかったと思われる――が、私は彼女の生き方に敬意を表するしかない。
 そんなヴィッキー・マイロン図書館長と、一匹のねこデューイ・リードモア・ブックスの“人生”が交わることとなる。私の“娘”がそうであるように、“たかが一匹のねこ”の体調に一喜一憂させられ、時として仕事や勉強の最中であっても遊ばせられ(といいつつ嫌ではないのだが)、しかし時に行き詰まっていれば癒しと安らぎを与えられ、お互いがお互いを特別な存在であると認識し合っていたはずだ。

 デューイは、図書館の利用者にとっても町の人たちにとっても、欠かせない存在となっていく。かわいらしい、人見知りしない、賢いねこが図書館にいるのである。想像に難くないことである。文字を追うのと同時に、その様子は目に浮かんでくるかのようだ。
 もちろん、ただのかわいいねこが図書館に座っているだけの話ではない(と最初に言ったか)。デューイはきっと、出合った一人ひとりの心に触れ、それぞれに何かを残したのである。
彼は図書館に身をひそめ、友人たちを守ろうとしているのだった。そんな猫は愛さずにはいられない、そうでしょう?(p203)
そういう意味で、デューイは偉大なる“図書館ねこ”であったと言えるだろう。

 実は、本書を読むもっと前に、「図書館に“ねこ館長”がいたらいいのに」と図書館で働く友人たちと話したことがある。酒の席での他愛もない話ではあるが。“駅長”を務めるねこが実際にいて人気を博しており、私たちの通う図書館の周りにはいつもねこがたくさんいるのである。かわいいねこがカウンターにいるだけでそれだけで利用者もスタッフも癒されるだろうし(まったく近頃の世の中は図書館も含めて殺伐としてきている)、それだけで宣伝――どんな企画展示よりも有効な――になりそうである。
 そして読み終えて思ったことは、それは半分は当たっていて半分は違うのだろう、ということだった。ねこがいることで得られる効果はもちろん、私が知らなかっただけでアイオワの図書館で実証されていたのだ。しかしそれは、デューイという個性をもったあのねこと、彼を得たあの町、あの図書館長を有する、あの図書館の物語であるのだ。そのほかの町でそのほかの図書館で、デューイ以外のねこがいたとして、同じような幸せな物語は生まれなかったのではないだろうか。
 それでも(いや、「だからこそ」かもしれないが)、こう思わずにいられない。
「うちの図書館にもこんなねこがいたらなあ
……結局は叶えられることのない、思いでしかない。うらやましいことこのうえない。

 さて、話は戻って私と私の“娘”のことだが、デューイとヴィッキーほどすばらしく幸せな関係では、実はない。なぜなら、私がなると出合った時に私は高校3年生であり、自分で育てると言っておいて1年足らずで進学のために家を出てしまったのだ。つまり、私は最初の1年ほどを共に過ごしただけの“親子”でしかなかった。実際に彼女を育てたのは、私の両親であり兄弟たち家族であった。
 なるがうちに来た当時、我が家はペットについて複雑な状態にあった。亡くしたわけではないが、10年間一緒に暮らしてきたイヌが行方不明となって、まだひと月だった。死んだところも見ておらず悲しみにくれることもできず、しかしみつからず(16年経った今ももちろん見つかっていない)、どうしたものかと思っていた。そんな時に、私はなるを連れて帰ってきた。
 そんな中、よくもいなくなった娘の“娘”を面倒みてくれたものである。私がなるを連れてきたんだろうと言う両親に、「なるが自分でついてきた」と私は言ったものだった。はいはい、と言いつつ両親は私がなるを「誘拐」してきたのだとよく言った。そんな軽口を叩きながら、なるは私の家族と共に過ごし、私が帰れば私の膝の上にも乗り、布団の中にも入ってくる。私の家族は私が帰ると、「ほら、母ちゃんが帰ってきたぞ」となるに向かって言ったりもする。
 とにもかくにも、ここまで大事に育ててくれた(娘のこともそして私のことも)家族に、大いなる感謝を捧げたい。

(ヴィッキー・マイロン著・羽田詩津子訳「図書館ねこ デューイ 町を幸せにしたトラねこの物語」2008年11月、早川書房)

(2009/11/18)

 数多くあるチラシの中からこのチラシを手に取ったのは、ニコーが好きだったからでもなく、お買い得品がたくさん載っていたからでもない。その理由は、裏面に印刷がなされてなかったから、である。そう、私は裏紙を求めていたのだった。最近は片面印刷のチラシがめっきり減ったように思う。これも不況の影響だろうか。とにかく、ニコーのチラシは片面印刷であり、それゆえに私の目にとまることとなった。

 改めてチラシ掲載の内容を見てみる。なるほどお買い得品ばかりである。特におどろいたのは、「通し商品」欄の「長崎県産えのき茸(3袋)88円」「白身フライ・イカフライ(各1枚)各20円」「夕方4時より7時までタイムサービス」欄の「塩さんま(1尾)39円」などである。私の住んでいる地域、あるいは私がよく利用する店舗では、これほど安くなっているのを見たことがない。サンマなど、安くなっても一尾78円ほどである。えのきも1袋の値段と同じくらいだ。衝撃を受けた。買って帰ろうかとも思ったのだが、これは「4(火)」のチラシであり、今日はすでに6(木)になっており、残念というほかない。時は過去には戻せない、ということを改めて実感した。

 また、卵が78円というのにも目を惹かれた。そう、私は卵が大好きなのである。しかし、よくよく見ると1パックは「(8個入)」とあり、「他に500円以上お買い上げの方」という注意書きもある。私がよく利用するスーパーマーケットでは、毎週水曜日(時には土曜日にも)に10個入りのパックが98円~78円ほどで買えるのである。赤たまごと白たまごの違いはあるが、ついつい比較してしまう。どこのスーパーでも客をひきつける努力をしているんだろうなぁ、と思った。

 そして、このチラシを見て最も気になった商品は「通し商品」欄の「揖保の糸そうめん(300g)198円」であった。なぜ気になったかというと、このチラシのお店があり、そしてチラシを受け取り店を利用する人たちがいるのは、「神埼そうめん」で有名な神埼市である。「揖保の糸」は言わずと知れた兵庫県の特産品である。もちろん「揖保の糸」もおいしいことは十分承知しているのだが、佐賀の店・神埼の店であるならば「神の白糸」「伊之助めん」などといった神埼そうめんを販売し、売り出すべきではないのだろうか。そうすることで地元の企業を応援し、地元に密着し、地元に愛される商売をめざすというのがではないだろうか。たかがそうめん、されどそうめん、である。神埼といえばそうめん、というほどにそうめんが「売り」のこの神埼で、この行為はあまり好感の持てるものとは思えない。このことは、店側に再考を願いたいものである。

 私は、このニコーという店を知らないが、このチラシを読むことで様々なことを知ることができた。このたった一枚の紙から、私は大きなナニかを得ることができたようにも感じた。それは何だろうか。たとえ一枚のチラシでも、たった一行の言葉でも、人を動かす力を持っている。同じようなチラシが多く並ぶ中、このチラシが私の心を動かしたように。ともすれば、自分のちっぽけさばかりに思いが向かってしまうこともあるが、同じようなニンゲンに見えてもひとりひとりはそれぞれ違う人物なのである。私のことばが、私の行動が、誰かの心に触れ、動かす――。私もそういう生き方をしたいものだと思った。

(「本日ポイント3倍 真夏のニコー大作戦 第2弾!!」2009年8月)

(2009/9/17)

 図書館は戦場だ

 図書館をあまり利用しない人(する人でも)にとっては、図書館及び図書館員(司書)というのは、静か知的落ち着いた……そんなイメージをお持ちではないだろうか。そんなイメージ(幻想)に対して、現場の図書館員たちは
「図書館員って案外大変なのよ。夏休みとか休館日前後なんて戦場よ」
なんて言うことがあるようだ。しかし、このシリーズにおける図書館は、まさしく、まぎれもなく、戦場である。……図書館員は銃を持って戦っている。

 時は、昭和に続く正化(余談だが、元号はアルファベットで略することがあるのでこれはあり得ないだろう)の時代。公序良俗に反するメディア(出版物や放送)を取り締まるため「メディア良化法」が施行され、メディア良化委員会並びに良化特務機関によって、図書が、雑誌が、放送が、検閲によって”狩られる”世の中。読みたい本が読めない読者、検閲にかからないように無難な表現で発信するメディア、「悪書」を狩るためには人命すら顧みない良化機関。そして図書館は、それらの図書を、さらには市民の読書の自由・表現の自由を守るため、「図書館の自由法」を制定し、「図書隊」を整備して武力をもって検閲に対抗することとした。

 という、少々あり得ない、ぶっとんだ設定のもと、主人公・笠原郁を初めとする図書隊員たちは、日々訓練を積み、本とその読者を守るために戦っているのである。その本を守る「正義の味方」たちには、同僚同士の小さないざこざもあれば、苦悩もあるし、ラブコメあり、派閥争い・権力闘争あり……。当たり前のことながら人間臭い集団である。

 で、このシリーズ(「図書館戦争」「図書館内乱」「図書館危機」「図書館革命」)4作の物語は、その図書館(読書・表現)の自由を守る図書館と良化委員会との戦いと、ベッタベタなラブストーリーが主軸である。で、これが、実におもしろかった。何せ、続きが気になる本って久しぶりでしたから。

 1作目「図書館戦争」では、まずは設定のおもしろさに引き込まれる。図書特殊部隊(ライブラリー・タクスフォース)に不思議にも抜擢されてしまったものの隊内で最も出来が悪い郁が主人公であるために、こっちも同じレベルで解説してもらえる気分。まだまだわからないことがいっぱい。ラブの方の展開はべたべたで、まだお互いにいさかいが絶えない様子。郁は運動神経にすぐれ、直情的で動物的(?)なのに、脳内に時々乙女が現れる。図書隊に入るきっかけとなった、高校生時代の郁を助けてくれた正義の味方を「王子様」と呼んだり。たぶん近くにいたら恥ずかしい。そして、読んだ読者全員にわかってしまう王子様の正体。もう、にやけてくるくらいべた甘である。
 2作目「図書館内乱」は、少し内部事情に踏み込んでくる。正義の味方のような図書隊にもいろいろとあって……。大きなヤマ場としては郁の受けた査問。そしてラストの衝撃的な引き。小説であんな引き方するとは。王子様の正体はもっと引っ張るかと思っていたのに。
 3作目は「図書館危機」。私は、悲しい物語で泣くことよりも、悔しい物語に涙することが多い(ような気がする)。だから、稲嶺司令が引退せざるを得なくなるシーンなどはつらかった。
 最終作は「図書館革命」。原子力発電所がテロリストに狙われた、その事件がとある小説に酷似していた。というところから始まる。めずらしく事件はその大きな事件が一つ。それにより図書館界は大きな岐路に立たされる。そしてラブの模様も急展開。最後までもっともっとやきもきさせられるかと思っていたのに。

 オモシロイといえば、作中で出てくる事件・事象はまるっきり現実の世界とかけはなれているわけではないこと。作中の「日野の悪夢」の日野図書館といえば、現実の図書館界でもやはり有名なあの日野市立図書館で、作品の中の歴史において重要なポイントになっている。「図書館の自由法」だって元は今ある「図書館の自由に関する宣言」だし、作者曰く、図書館に掲示してある「宣言」がこの話の生まれるきっかけとのこと。利用者の記録を警察が大量に押収した事件もあったし、図書館員による資料の廃棄事件なども実際に起きたことだ。
 発禁図書とか有害指定図書とかの問題は今も昔も現実にある。読書が青少年に与える影響について(どんな本を読ませるべきか、読ませるべきでないかという問題も)とか。古いところでは「ちびくろサンボ」「ピノキオ」問題とか。「完全自殺マニュアル」とか。新しいところでは「僕はパパを殺すことに決めた」問題とか。「図書館はいかなる検閲にも反対する」のはず。
   差別用語についてだって、ありふれた話題とすら思える。差別用語を狩る(指摘する)ことで、新たな差別を生むことになるのではないか、というのもいつの世も起きる議論であるような。本当にその言葉で傷つく人たちがいるのなら、それは使うべきではない、と私は思う。だから、あるイミ「良化委員会」のやっていることも間違いではなかったのかもしれない。傷ついている人たちが「傷ついている」と声をあげるのは難しいだろうし。ただ、この作品の中の「良化委員会」のやってることは、目的が行為にすり替わり、守るために狩っていたはずが、狩るために探すようになっていったのかな、と思う。大きな力を手にしてしまうと、人は何かが狂ってしまうのだろうか。

 この本を読んでいて強く思ったのは、これはもしかしたら「フィクションだ」と笑っていられないお話なのではないかということ。現実には図書館を利用している人なんてそんなに多くはないのである。そして、世の中の多くの人はどんな法律がどのようにできていくのかに関心はあまりない。テレビや新聞で報道される分にしかわからない。そして、自分に関係ある法律が自分が不利益を被る方向に定められようとしても、何かアクションを起こす人などほとんどいないのが現状であろう。たとえば消費税率が上がったって、じゃあ反対しようと動く人は少なく、上がっちゃって大変ねぇ、と愚痴をこぼすだけではないか。手塚兄も言っていた。

……自分に切実な不利益が降りかかってこない限り、行動する人はわずかだ。不満はあってもそれが致命的な不利益に繋がらない限り、大多数の人間はそれに順応する。…(略)…残念ながら、本が自由に読めないことや表現が規制されることで致命的な不利益を感じる人は君が思っているより少なかったんだよ。だからメディア良化法が当たり前のように施行されているこの社会が成立してる……

とすると、いつの間にか「メディア良化法」が通ってしまっても不思議ではない、かもしれない。

 そうなった時、自分はどうしているだろうか。図書隊ができたとして、業務部で働いているだろうか。柴崎みたいなポジションいいなぁ。特殊部隊に入りたい、なんて言っても、運動神経も体力も皆無に近い私ではムリだろうなぁ、などとバカげた妄想もしてみる。それでも、どういう形であっても、本と利用者と図書館を守りたい――
――と、胸はって言い切れるだろうか。

 つい先日、仕事中にちょっとしたトラブルに出くわしたのだが、残念ながら私はけしからんその人に対して弱々しい注意しかできなかった。その人物の発言にかなり腹が立ったにも関わらず、その人物がもし時折報道されるような凶行に及ぶような人物だったらどうしよう、とちょっと怯んでしまった。もう1人の当事者が不快な思いをするのを途中で止めてあげられなかった。なんか、悔しくなった。多少殴られるくらいのことになっても、むしろそうなったら大問題になって、けしからん奴はしかるべき人にちゃんと叱ってもらえただろうに、――と思ったのは当事者たちが目の前からいなくなってからのことだった。
 今は、この本を読んだから図書館原則派に近いと思っているけれど、私が良化委員会側につかないとも限らない。差別的な発言なんて許しがたいものだと思うし、それが高じてもしかしたら差別用語を狩ってばかりの委員になっているかもしれない。そもそも、現実の私に銃を持って戦うことなんてあり得ない。本を守るために人を撃ってもいいのか、と問われたら、それはいかんなぁ、と思う方だろう。「――危機」に出てきた「無抵抗者の会」みたいな立ち位置にいるかもしれない。

 それでも。少なくともこの本を読んだ今だけでも、本とその読者と図書館がもしも蹂躙されるような事態に陥った時には、それらを守るために戦いたい(銃を持ってという意味ではなく)
 願わくば、そのような時が来ないように。そのようにならないために戦いたい、と思う。

図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。

 いつの未来か、このシリーズが検閲対象の図書にされることのないように、願う。

(有川浩「図書館戦争」2006年3月、「図書館内乱」2006年9月、「図書館危機」2007年3月、「図書館革命」2007年11月、全てメディアワークス)

     

(2007/12/28)

米ぬかバンザイ! 米ぬか最高!!

と思わず叫んでしまいかねない本でした。ま、叫びませんでしたが。

 そもそも、この本を読んだきっかけは、米ぬかが大量に手に入ったことでした。じゃあ、そもそも何で米ぬかが手に入ったかというと、精米してすぐのお米をネットで購入しているのですが、そのお店では精米時に出るぬかを無料でわけてくれるのです。これまでは使い途がわからずもらわなかったのですが、急に何だかもらってみようと思い、「要」にして購入したのです。そしたら、思ったより大量のぬかもそもそと送られてきた、というのがそもそもの始まりでした。
 さあ大変、筍の季節は過ぎてしまったし(茹でるときに米ぬかを使うとよい)、ぬか漬けは難しいらしいし……。で、そんな時の図書館です。“米ぬか”で検索すると「米ぬか健康法(副題:「毎日スプーン1杯で美しくやせる」)がヒット。

 ……こうして、私たちは出会ったのでした。

 でも、読んでみて正直うさんくさい感じもしました。本書曰く、米ぬかを食べ続けて、

  • 便秘が治った!
  • 痩せた!
  • 肌が見違えるほどキレイになった!
  • 高血圧が改善された!
  • 冷え症・肩こりが治まった!
  • 医者も諦めていたような皮膚炎が治った!
  • その他、脱毛や不妊症などなど…にも効果をあげている、とのこと。
  • こうなってくると、もしかすると、米ぬかで結婚相手が見つかりました、とか、米ぬかを食べていたら宝くじに当たりました、とか、生き別れになっていた兄弟に会えました、とか、米ぬかで国際紛争が解決できました、とかまでいくんじゃないかと思わないでもありませんでした。何とか水晶のブレスレットとか、掛け軸とか、そんな気配を感じるほどでした。何せ、「……人間の肉体にとって、玄米を食べることが宿命であり、責任であり、義務でもある。……」で、「……江戸幕府崩壊の一因は白米にあったもいえるんじゃないかな。……」ですよ。

     とはいいつつも、実は私の考えと共通するところも多かったのです。私は、漂白したものや着色した食品がキライなのです。自然のものをムリヤリ美しく見せようとすることは、人体にも環境にも余分な負荷がかかると思っています。真っ赤なタコさんウィンナーも、真っ赤な缶詰チェリーも、真っ青なブルーハワイのかき氷も、小さい頃からキライでした。使う紙は再生紙です。みなさん、紙を漂白するのにどれだけの薬品と手間がかかるかご存知ですか?私も詳しくは知りませんが。漂白するのに薬品を使い、その薬品の成分を浄化するのに多大な労力を必要とするのです。
     そして、米は無洗米派から分搗き米派になりました。でも、本当は玄米がいいらしいのです。しかし、著者の河村さんも仰ってますが、いきなり白米食を玄米食にするのは大変なんです。で、7分搗き米から始めている私ですが、白米と一緒に米ぬかを食べれば、オールOK、なのだそうです。

     この本のいいところは、米ぬかだけを大量に食べなさい、とは決して言わないところです。「一粒の米にはでんぷんを分解するのにちょうどいい量のビタミンが含まれて」いるのだそうです。皮を含めて全体でひとつなのだ、米も野菜も皮を捨てずに食べるべし、白砂糖は使わない。バランスよく食べる、旬のものを食べる、近くでとれたものを食べる。そう、自然、自然に近い姿がいいのです。ふつうのことなんです。

     この本では、今流行りのアレのことを20年以上も前にしっかり言ってるんです。デトックスだとかマクロビオティックだとかカタカナでかっこよく言ってるアレです。かっこよく言ってるけど、昔の人のムリのない食生活に戻しましょうよ、ってことですよね。で、この本では、そのために米ぬか食べたらいいですよ、と言ってるんですね。

     で、結局私の体調は、というと相変わらずです。劇的に痩せることも、肩こりが治ることもまだありません。こうしてる今も肩は痛い。ま、私から肩こりをとったら大したもんです。まぁ、まだそんなに食べてないけどね。だいたい、摂取してすぐ何かが劇的に治るようなものは怪しいと思っていますし。ちなみに「米ぬかは身体を自然な状態に戻すだけ」だそうです。
     でも、ただ捨てるだけのぬかなら食べた方がいいと思いません? リサイクル・リユーズ・リデュースの3Rの精神ですよ。しかも健康にもいいかもしれませんし。もはや、LOHASかも。

     ということで、ご希望の方はウチの米ぬかお分けします。食べ方はこの本を読んでください。

    米ぬか健康法

    (河村通夫「米ぬか健康法~毎日スプーン1杯で美しくやせる~」1984年10月、小学館)

    (2006/7/14)

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