浄土真宗の開祖・親鸞の物語であるが、宗教者として偉人としての“親鸞”というより、ひとりの悩める青年としての“親鸞”が描かれている。
京都では2011年から2012年にかけて東西本願寺をはじめとして、「親鸞聖人750回大遠忌」とする法要・行事が催されている。私自身勘違いしていたのであるが、2011年が親鸞聖人750回忌なのかと思ったら、2012年が750回忌なのだそうだ。2012年1月16日が750回めのご命日。(宗派によって旧暦で行うところもあります)

「親鸞」と言っているが、“親鸞”が“親鸞”になるまでの物語といってよいかもしれない。
放埒者”の血を引く、不思議な少年“忠範”の物語。末法の世と言われ、汚濁にまみれた世の中。

いまの世に生きる者たちには、明日という日はございません。きょう、このとき、いましかないのです


そういって比叡山に入った修行僧“範宴”の苦悩の日々。
学問の難しさであり、悟り得られぬ苦しさであり、教団・教義への疑念であり、若き青年として当然わきおこるであろう様々な欲求への懊悩であったろうか。

〈そもそも仏とは何なのか〉


と自らに問い、

……常行三昧の行をつとめながら、心にうかぶのは、みだらな男女の愛欲の情景であり、酒に狂う父の姿、泣きふす母の姿、そして伯父の家に置き去りにしてきた弟たちの顔です。み仏に会うことはできず、おのれの実体も見えませぬ。法印さま、範宴はいま、横川の闇よりも暗い無明の谷底にいるのです。……


と語る範宴。
そして、法然上人のもとへ行き“綽空”と名を変えての念仏の日々。妻帯し、肉食するという、あり得ない僧である。法然の念仏教団をとりまく問題、教団内での問題。そのただ中にいた綽空。
さらに、師から教えを受け継ぐ者として、独り立ちした“善信”。そのもとにふりかかる念仏禁止の法難。妻・恵信の故郷である越後への流罪。
それとともに“親鸞”と名を変える――

とざっくり名前の変遷と共に追ってみたが、とうてい書ききれない。
もっと多くの魅力的な人たちが出てきている。美しいきれいな尊い物語ではなく、現実の汚濁に満ちた世界がかいま見えもする。ありきたりの言葉ではない。“親鸞”というひとりの“人間”が描かれることによって彼の思想や教えや苦悩が、もしかしたら少し“現在”のわたしに伝わってくるのかもしれない。

昨年の第一冊めとしてこの本を読めたことがうれしかったし、今年またもう一度手にとってみれたこともありがたい。

そろそろ、激動編を読んでみたいと思っている。

親鸞 (上) (五木寛之「親鸞」) 親鸞 (上) (五木寛之「親鸞」)
(2009/12/26)
五木 寛之

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