この物語を、私は、カバーに描かれたイラストや口絵の写真に見られる、赤茶色したふさふさの毛並みの“図書館ねこデューイ”の姿ではなく、私の実家に置いてきた焦げ茶色とうす茶色の混じり合った私の“”(名前を「なる」という)の姿を思い出しながら読んでいた。著者のヴィッキー・マイロンが凍えるような寒い寒い冬の朝に、返却ポストの中にいた子ねこ、すなわち彼女の息子であるデューイ・リードモア・ブックス(なんとすてきな名前だろう!)と運命的な出合いをしたように、私にも私の娘との運命的な出合いがあった。

 ……忘れもしない、今から16年前(何ともう16年も前!)の6月8日、私たちは出合った。6月のその日は雨が降っていた。学校帰りのバスから降り、傘を差して家へと歩き始めてすぐだった。その小さな声を聞いた。
「みぃ~、みぃ~」
立ち止まってみると、植え込みから、ずぶぬれになった小さな小さなやせっぽちの子ねこが、よちよちよたよたと歩き出してきた。ほんとうにほんとうに小さかった。私は、かがみこんでじっと見つめてそして手を伸ばし、「にゃあ」と鳴いてみた(この一連の行動は私の習性みたいなものである)。食べさせるものも何も持っていない。立ち上がって再び家路へと歩き出した。
――とその時、その子ねこは私と共に歩き出したのだ。私の両の足に頬をすりつけるようにしながら、大きな人間であるところの私と共に、雨の中を歩き始めた。そして、ねこには「なる」という名前と、私の「娘」という続柄が与えられ、私たちは家族となった……。

 本書の内容は、ただ、かわいい子ねこが図書館で拾われて、みんなの人気者になった――というような簡単なお話ではない。と思う。
 まずこの物語は、デューイのママであるところのヴィッキー・マイロンの人生の物語でもある。
 ヴィッキーは、アイオワ州スペンサーの公共図書館の館長だった。ただし、彼女は最初から図書館で働くべく勉強してきた人ではなかった。幸せな結婚をしたはずのヴィッキにーは、出産と産後の過酷な人生が待っていた。手術、手術、手術……、2人め以降の子どもを授かるチャンスを無惨に奪われ、“六十歳になりかけた二十四歳”(重度の更年期障害)となった。夫は酒におぼれ、やがて離婚。それからのヴィッキーの懸命な努力により――もちろん周りの助けもあったが――、彼女は大学を“最優等”で卒業し、その後図書館で働くこととなった。その後の人生も、順風満帆とは言い難い――特に女手ひとつで一人娘を育てていくことは並大抵のことではなかったと思われる――が、私は彼女の生き方に敬意を表するしかない。
 そんなヴィッキー・マイロン図書館長と、一匹のねこデューイ・リードモア・ブックスの“人生”が交わることとなる。私の“娘”がそうであるように、“たかが一匹のねこ”の体調に一喜一憂させられ、時として仕事や勉強の最中であっても遊ばせられ(といいつつ嫌ではないのだが)、しかし時に行き詰まっていれば癒しと安らぎを与えられ、お互いがお互いを特別な存在であると認識し合っていたはずだ。

 デューイは、図書館の利用者にとっても町の人たちにとっても、欠かせない存在となっていく。かわいらしい、人見知りしない、賢いねこが図書館にいるのである。想像に難くないことである。文字を追うのと同時に、その様子は目に浮かんでくるかのようだ。
 もちろん、ただのかわいいねこが図書館に座っているだけの話ではない(と最初に言ったか)。デューイはきっと、出合った一人ひとりの心に触れ、それぞれに何かを残したのである。
彼は図書館に身をひそめ、友人たちを守ろうとしているのだった。そんな猫は愛さずにはいられない、そうでしょう?(p203)
そういう意味で、デューイは偉大なる“図書館ねこ”であったと言えるだろう。

 実は、本書を読むもっと前に、「図書館に“ねこ館長”がいたらいいのに」と図書館で働く友人たちと話したことがある。酒の席での他愛もない話ではあるが。“駅長”を務めるねこが実際にいて人気を博しており、私たちの通う図書館の周りにはいつもねこがたくさんいるのである。かわいいねこがカウンターにいるだけでそれだけで利用者もスタッフも癒されるだろうし(まったく近頃の世の中は図書館も含めて殺伐としてきている)、それだけで宣伝――どんな企画展示よりも有効な――になりそうである。
 そして読み終えて思ったことは、それは半分は当たっていて半分は違うのだろう、ということだった。ねこがいることで得られる効果はもちろん、私が知らなかっただけでアイオワの図書館で実証されていたのだ。しかしそれは、デューイという個性をもったあのねこと、彼を得たあの町、あの図書館長を有する、あの図書館の物語であるのだ。そのほかの町でそのほかの図書館で、デューイ以外のねこがいたとして、同じような幸せな物語は生まれなかったのではないだろうか。
 それでも(いや、「だからこそ」かもしれないが)、こう思わずにいられない。
「うちの図書館にもこんなねこがいたらなあ
……結局は叶えられることのない、思いでしかない。うらやましいことこのうえない。

 さて、話は戻って私と私の“娘”のことだが、デューイとヴィッキーほどすばらしく幸せな関係では、実はない。なぜなら、私がなると出合った時に私は高校3年生であり、自分で育てると言っておいて1年足らずで進学のために家を出てしまったのだ。つまり、私は最初の1年ほどを共に過ごしただけの“親子”でしかなかった。実際に彼女を育てたのは、私の両親であり兄弟たち家族であった。
 なるがうちに来た当時、我が家はペットについて複雑な状態にあった。亡くしたわけではないが、10年間一緒に暮らしてきたイヌが行方不明となって、まだひと月だった。死んだところも見ておらず悲しみにくれることもできず、しかしみつからず(16年経った今ももちろん見つかっていない)、どうしたものかと思っていた。そんな時に、私はなるを連れて帰ってきた。
 そんな中、よくもいなくなった娘の“娘”を面倒みてくれたものである。私がなるを連れてきたんだろうと言う両親に、「なるが自分でついてきた」と私は言ったものだった。はいはい、と言いつつ両親は私がなるを「誘拐」してきたのだとよく言った。そんな軽口を叩きながら、なるは私の家族と共に過ごし、私が帰れば私の膝の上にも乗り、布団の中にも入ってくる。私の家族は私が帰ると、「ほら、母ちゃんが帰ってきたぞ」となるに向かって言ったりもする。
 とにもかくにも、ここまで大事に育ててくれた(娘のこともそして私のことも)家族に、大いなる感謝を捧げたい。

(ヴィッキー・マイロン著・羽田詩津子訳「図書館ねこ デューイ 町を幸せにしたトラねこの物語」2008年11月、早川書房)

(2009/11/18)