図書館は戦場だ

 図書館をあまり利用しない人(する人でも)にとっては、図書館及び図書館員(司書)というのは、静か知的落ち着いた……そんなイメージをお持ちではないだろうか。そんなイメージ(幻想)に対して、現場の図書館員たちは
「図書館員って案外大変なのよ。夏休みとか休館日前後なんて戦場よ」
なんて言うことがあるようだ。しかし、このシリーズにおける図書館は、まさしく、まぎれもなく、戦場である。……図書館員は銃を持って戦っている。

 時は、昭和に続く正化(余談だが、元号はアルファベットで略することがあるのでこれはあり得ないだろう)の時代。公序良俗に反するメディア(出版物や放送)を取り締まるため「メディア良化法」が施行され、メディア良化委員会並びに良化特務機関によって、図書が、雑誌が、放送が、検閲によって”狩られる”世の中。読みたい本が読めない読者、検閲にかからないように無難な表現で発信するメディア、「悪書」を狩るためには人命すら顧みない良化機関。そして図書館は、それらの図書を、さらには市民の読書の自由・表現の自由を守るため、「図書館の自由法」を制定し、「図書隊」を整備して武力をもって検閲に対抗することとした。

 という、少々あり得ない、ぶっとんだ設定のもと、主人公・笠原郁を初めとする図書隊員たちは、日々訓練を積み、本とその読者を守るために戦っているのである。その本を守る「正義の味方」たちには、同僚同士の小さないざこざもあれば、苦悩もあるし、ラブコメあり、派閥争い・権力闘争あり……。当たり前のことながら人間臭い集団である。

 で、このシリーズ(「図書館戦争」「図書館内乱」「図書館危機」「図書館革命」)4作の物語は、その図書館(読書・表現)の自由を守る図書館と良化委員会との戦いと、ベッタベタなラブストーリーが主軸である。で、これが、実におもしろかった。何せ、続きが気になる本って久しぶりでしたから。

 1作目「図書館戦争」では、まずは設定のおもしろさに引き込まれる。図書特殊部隊(ライブラリー・タクスフォース)に不思議にも抜擢されてしまったものの隊内で最も出来が悪い郁が主人公であるために、こっちも同じレベルで解説してもらえる気分。まだまだわからないことがいっぱい。ラブの方の展開はべたべたで、まだお互いにいさかいが絶えない様子。郁は運動神経にすぐれ、直情的で動物的(?)なのに、脳内に時々乙女が現れる。図書隊に入るきっかけとなった、高校生時代の郁を助けてくれた正義の味方を「王子様」と呼んだり。たぶん近くにいたら恥ずかしい。そして、読んだ読者全員にわかってしまう王子様の正体。もう、にやけてくるくらいべた甘である。
 2作目「図書館内乱」は、少し内部事情に踏み込んでくる。正義の味方のような図書隊にもいろいろとあって……。大きなヤマ場としては郁の受けた査問。そしてラストの衝撃的な引き。小説であんな引き方するとは。王子様の正体はもっと引っ張るかと思っていたのに。
 3作目は「図書館危機」。私は、悲しい物語で泣くことよりも、悔しい物語に涙することが多い(ような気がする)。だから、稲嶺司令が引退せざるを得なくなるシーンなどはつらかった。
 最終作は「図書館革命」。原子力発電所がテロリストに狙われた、その事件がとある小説に酷似していた。というところから始まる。めずらしく事件はその大きな事件が一つ。それにより図書館界は大きな岐路に立たされる。そしてラブの模様も急展開。最後までもっともっとやきもきさせられるかと思っていたのに。

 オモシロイといえば、作中で出てくる事件・事象はまるっきり現実の世界とかけはなれているわけではないこと。作中の「日野の悪夢」の日野図書館といえば、現実の図書館界でもやはり有名なあの日野市立図書館で、作品の中の歴史において重要なポイントになっている。「図書館の自由法」だって元は今ある「図書館の自由に関する宣言」だし、作者曰く、図書館に掲示してある「宣言」がこの話の生まれるきっかけとのこと。利用者の記録を警察が大量に押収した事件もあったし、図書館員による資料の廃棄事件なども実際に起きたことだ。
 発禁図書とか有害指定図書とかの問題は今も昔も現実にある。読書が青少年に与える影響について(どんな本を読ませるべきか、読ませるべきでないかという問題も)とか。古いところでは「ちびくろサンボ」「ピノキオ」問題とか。「完全自殺マニュアル」とか。新しいところでは「僕はパパを殺すことに決めた」問題とか。「図書館はいかなる検閲にも反対する」のはず。
   差別用語についてだって、ありふれた話題とすら思える。差別用語を狩る(指摘する)ことで、新たな差別を生むことになるのではないか、というのもいつの世も起きる議論であるような。本当にその言葉で傷つく人たちがいるのなら、それは使うべきではない、と私は思う。だから、あるイミ「良化委員会」のやっていることも間違いではなかったのかもしれない。傷ついている人たちが「傷ついている」と声をあげるのは難しいだろうし。ただ、この作品の中の「良化委員会」のやってることは、目的が行為にすり替わり、守るために狩っていたはずが、狩るために探すようになっていったのかな、と思う。大きな力を手にしてしまうと、人は何かが狂ってしまうのだろうか。

 この本を読んでいて強く思ったのは、これはもしかしたら「フィクションだ」と笑っていられないお話なのではないかということ。現実には図書館を利用している人なんてそんなに多くはないのである。そして、世の中の多くの人はどんな法律がどのようにできていくのかに関心はあまりない。テレビや新聞で報道される分にしかわからない。そして、自分に関係ある法律が自分が不利益を被る方向に定められようとしても、何かアクションを起こす人などほとんどいないのが現状であろう。たとえば消費税率が上がったって、じゃあ反対しようと動く人は少なく、上がっちゃって大変ねぇ、と愚痴をこぼすだけではないか。手塚兄も言っていた。

……自分に切実な不利益が降りかかってこない限り、行動する人はわずかだ。不満はあってもそれが致命的な不利益に繋がらない限り、大多数の人間はそれに順応する。…(略)…残念ながら、本が自由に読めないことや表現が規制されることで致命的な不利益を感じる人は君が思っているより少なかったんだよ。だからメディア良化法が当たり前のように施行されているこの社会が成立してる……

とすると、いつの間にか「メディア良化法」が通ってしまっても不思議ではない、かもしれない。

 そうなった時、自分はどうしているだろうか。図書隊ができたとして、業務部で働いているだろうか。柴崎みたいなポジションいいなぁ。特殊部隊に入りたい、なんて言っても、運動神経も体力も皆無に近い私ではムリだろうなぁ、などとバカげた妄想もしてみる。それでも、どういう形であっても、本と利用者と図書館を守りたい――
――と、胸はって言い切れるだろうか。

 つい先日、仕事中にちょっとしたトラブルに出くわしたのだが、残念ながら私はけしからんその人に対して弱々しい注意しかできなかった。その人物の発言にかなり腹が立ったにも関わらず、その人物がもし時折報道されるような凶行に及ぶような人物だったらどうしよう、とちょっと怯んでしまった。もう1人の当事者が不快な思いをするのを途中で止めてあげられなかった。なんか、悔しくなった。多少殴られるくらいのことになっても、むしろそうなったら大問題になって、けしからん奴はしかるべき人にちゃんと叱ってもらえただろうに、――と思ったのは当事者たちが目の前からいなくなってからのことだった。
 今は、この本を読んだから図書館原則派に近いと思っているけれど、私が良化委員会側につかないとも限らない。差別的な発言なんて許しがたいものだと思うし、それが高じてもしかしたら差別用語を狩ってばかりの委員になっているかもしれない。そもそも、現実の私に銃を持って戦うことなんてあり得ない。本を守るために人を撃ってもいいのか、と問われたら、それはいかんなぁ、と思う方だろう。「――危機」に出てきた「無抵抗者の会」みたいな立ち位置にいるかもしれない。

 それでも。少なくともこの本を読んだ今だけでも、本とその読者と図書館がもしも蹂躙されるような事態に陥った時には、それらを守るために戦いたい(銃を持ってという意味ではなく)
 願わくば、そのような時が来ないように。そのようにならないために戦いたい、と思う。

図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。

 いつの未来か、このシリーズが検閲対象の図書にされることのないように、願う。

(有川浩「図書館戦争」2006年3月、「図書館内乱」2006年9月、「図書館危機」2007年3月、「図書館革命」2007年11月、全てメディアワークス)

     

(2007/12/28)