「チリンのすず」というかわいらしいタイトル、そして表紙には花畑を歩く小ひつじらしき愛らしい絵。なのになのに、このせつなく悲しい読後感。「やさしいライオン」も悲しかったが、もっともっと深い悲しさがこみ上げてくる。これを幼児に読ませてよいものだろうか、という疑問すら涌いてくる。そんな「チリンのすず」。

 生まれたばかりの子ひつじとやさしいお母さんとの幸せな生活。そしてそれを奪った恐ろしいオオカミ・ウォー。なのに、チリンは母ひつじを殺したオオカミに「あなたの ような つよい おおかみに なりたい。」と弟子入り。ウォーもウォーで、いつも嫌われてばっかりでそんなことを言われたのが初めてだったもんだからこころの なかが ふわーっと あたたかかく なりまして、チリンの弟子入りを認めます。

 そんなバカな。お母さんの仇だよ。というか、君はひつじなのにオオカミになる気か? ウォーよ、ひつじはエサではないのか? ……そんな読者(私)の心の声をよそに、三年の猛特訓でどこから みても ひつじには みえない ものすごい けだものになったチリン。あのかわいらしい面影はどこにもありません。とうとうふたりぐみの あばれものとして鈴の音を聞いただけで恐れられる存在となったのでした。

 そして、何とチリンとウォーはひつじのまきばを襲うことにします。ええー、チリン、君はひつじだよ。襲おうとしてるのは仲間だよ。「ぼくたちは しぬ ときも いっしょだ。」心までオオカミになってしまったのか? ……そう思ったときでした。

 何と、チリンは師匠で相棒のウォーを襲います。がーん!!
「ぼくは この ときが くるのを いまか いまかと まっていた。おまえより つよくなるために がんばったのだ。しね ウ(う)(ぉ)ー。」
何だよ、かわいい顔して復讐に燃えていたんだなんて。何という、ジャンプ的展開。しかも、死に瀕したウォー、
「ずっと まえから いつか こういう ときが くると かくごしていた。おまえに やられて よかった。おれは よろこんでいる。」
と、ますますジャンプ的展開。文節区切りとひらがな表記がまるでそぐわない展開です。

 そして、念願かなって母の仇を取ったチリンは、
「…… おまえが しんで はじめて わかった。おまえは ぼくの せんせいで おとうさんだった。ぼくは いつのまにか おまえを すきになって いたのだ。 もう ぼくは ひつじには かえることが できない。」
そう言って姿を消したのでした。

 悲しすぎます。けれど、人生はすべてハッピーエンドではないのかもしれない。楽しいことばかりじゃなく、取り返しのつかないことをしてしまうことだってあるのです。そして、「あんぱんまん」の自分の身を与えるほどのはかりしれないやさしさを描くと同時に、「チリンのすず」のような人生の悲しさやつらさまでも描くやなせたかしさんが私は好きです。もし、私に子どもが生まれたら、「あんぱんまん」と「やさしいライオン」と「チリンのすず」全部読ませたいです。

(やなせ・たかし作・絵「チリンのすず」1978年10月、フレーベル館)

チリンのすず

(2005/9/1)