ぶつぶつノート ~ごはんおかわり~

たとえアイコンがうさぎになろうとも、ヒト型ネコはゆずらないっ!
ごはんおかわり! お茶も!
あ、ぶぶ漬けでもどうですか?

私、実は「閑話休題」って勘違いしてました。

横道にそれた話を本筋に戻す、という意を表す語。(「新明解国語辞典 第4版」)
って逆だと思ってた。つまり、「閑話休題」は「脱線」と同じだと思ってたんです。「話は変わるけど」のような。本当は「話戻すけど」だったんですね。って、いきなり脱線。

閑話休題。

これまで作文室に発表した作品が5編。「明日から…」「遺書」「ウラナイギライ」「Endless Dream」「オリジナル」そして今回が「閑話休題」。並べたら気づきました? そう、タイトルの頭文字、あいうえお…と続けたんです。はい、気づいていた人、右手を挙げてください。……あ、何人かいますね。はい、手を下ろしてください。

でも、これは今回で終わりにします。たまたま書きたかった内容のいくつかがア行に多かったので、無理やり5つ並べて遊んでみましました。当初書く予定になかったことも入れて、タイトルを無理やり「ア」から始めて……、「エ」で始まるタイトルの作文、何がいいかなぁ……、と。これはこれで面白かったです。

しかし、これを続けると次に「ア」で始まるタイトルはかなり先になってしまいます。もちろんタイトルを変えればいいんですが。それでは、「制約なしで書く」という自分で決めたルールが守られません。「ウ」なんてあと2つはネタがあるし、「メ」で始まるものは既に半分ぐらい書けているのに、このままだとかなり長いこと日の目をみることができなくなってしまうのです。というより、いきなり次の「キ」で止まります。ですから、今後はいつ何を発表するかは気分にまかせようと思います。この「閑話休題」で本筋に戻します。

閑話休題。

ついでですし、タイトルについて。私は、タイトルも作文のうちだと考えております。できるだけ、気の利いたタイトルが付けられるように、と日々精進してゆきたいと思い願う所存であります。本を買う時だって、タイトル見ますよね。まだまだ書き上げた作文が少ないので、ここに来られる方は皆さん(「皆さん」と言うほど読者はいないけど)、更新されたものを順に読んでおられるかと思います。でも、いつか作品がたくさんになって(いつだろう)、そんな時、初めて来られた方がタイトルを見て読みたくなるような、そんな風な作品を増やしていきたいんです。

読書感想文でも、ちょっとがんばってみたいと思います。学校の宿題では「○○(書名)を読んで」というタイトルを付けることがほとんどでした。皆さんも、そうだった(あるいは現にそうである)のではないでしょうか。ここではせっかくなので、(なるべく)もっと違うタイトルにしようと試みております。試みますが、全く本の内容とかけはなれたタイトルにするのも、と思い、2作しか書いていないのに、すでに苦戦中です。

閑話休題。

次回から、もうちょっと本腰入れて作文を書きたいと思います。

(2003/11/4)

この館内で発表している作文や感想文などは、全て私(きよこ)のオリジナル作品である。当然ですね。人のもの借りてきてそれでサイトを作ってしまうわけにもいけませんしね。

でも、この“オリジナル”ということにこだわろうとすると、けっこうこれが難しい。なぜなら、それが人真似でないということを立証することが難しいから。何でも「ない」ことを立証することは困難なのである。私の知らないどこかで、私と似たようなことを考えて、似たように発表している人はいるかも知れない。というか、いると思う。でも、正直言って、そんなこと調べてられるはずがない。

この現代のインターネット社会、私ごときがこうやって自分の文章を発表できるんだもの。知らない人の知らない文章がたくさんあって、知ってるものより知らないものの方がはるかに多いはずだ。まぁ、誰もそうやって自分のものがオリジナルかどうか調べたりしないと思うけど。

でも、いち作文家としては、できるだけ、よそにないものをよそにない言葉で語りたいと思いもするんですよ。出すもの出すもの「あ、これどこかで見たことある」と思われるのはシャクですし。

しかし、世の中は広いので、やっぱり自分と同じことを考える人はいるのである。だいたい、本を読むにしろ、サイトを見るにしろ、人と付き合うにしろ、何かしら自分が共感できる人のものと接することが多いのがフツウだと思う。すると、テレパシーのようにその人が私の文章を先取りしていることがある。だから、「あぁ、この人も同じこと考えてる」……と思うことがしょっちゅうある。

ここで、ふとある考えに行きあたる。そもそも、オリジナルって何だろう。全くのオリジナルはありえるのか。無から有を生み出すことはできるのか、である。(また変なこと言い出したかな。)

私の頭の中に在るものは、もちろん私の頭が考え出したことであるが、これまでにさまざまな影響を受けてこういう考え方をするようになったはずだ。 例えば、「バラは美しい」と思ったとして、“バラ=美しい”という概念、あるいは“美しい”とはこういうことだ、という情報を仕入れてなければいけない。それが仕入れられてなければ、バラを見ても「美しい」とは感じないはず。美醜、善悪、好悪、……。これまでの人生でいろいろなところで影響を受け続けて、自分の価値基準ができているんじゃなかろうか。

私は、思想や思考は化学反応と同じようなものだと思っている。全く何もないところから出てくるんじゃなくて、二酸化マンガンにオキシドールを加えて酸素ができるように、石灰石にうすい塩酸を加えて二酸化炭素ができるように、どこかで仕入れた情報や考え方などがいくつも混じり合い、自分の頭の中で分裂や結合などの反応をすることで、こう、いわば弁証法的に(?)“新しい考え”ができるんじゃなかろうか。だから質量保存の法則も当てはめて、「何もないところからは何も生まれない」。

あるいは、料理のようなものかな、とも考える。材料があってそこから料理が生まれるのだが、同じ材料を使っても違う料理ができたり、新しい味が生まれたり、するような。オリジナルレシピを作ったとして、今までに食べてきたもののデータから判断して“オリジナル”を作るはず、だと思う。

何が言いたいかというと、独自の考えと思っているものも、どこかに元があるんだ、ということ。

もちろん、そうやってできたものは、もう“新しいもの”と言ってよいと思うんですね。思うけど、それもいろいろと影響受けて生まれてるんですよね。だから、私の文章が誰かの書く文章と似てる、というのは仕方ないし、どこかで似たようなものも発表されていても当然なんです。

かつて、私の文章を読んだ人から、「清水義範好きですか?」と言われたことがあった。その人は私の文章を清水っぽいと思ったらしい(その人にそのことを言ったこともなければ、文章も全く関係なかったのに)。事実、それはそうなのであるが、ああ、知らん間に影響受けてるんだな、と思った次第である。

何が言いたいか分からなくなってきましたが、まぁ、影響を受けていたとしても、写したりはしませんよ、と。そういう意味で“オリジナル”ですよ、と。

で、今日の“オリジナル”の話は“オリジナル”になってるでしょうか。

(2003/11/3)

このページのトップヘ